2014年8月2日土曜日

自分と向き合うということ(作文風)


ブルキナファソにいると、自分の心と向き合うことが多くなる気がします。

子どもが書いてくれた私の似顔絵
日本にいれば、大抵お手本となる行動や思想があるので、特別なことでない限り、他の日本人の90%が正しい、普通と感じることは私にとっても正しいことで、普通のことです。

それがこっちに来ると、日本では普通だと思っていたことがこっちでは失礼にあたったり、逆にブルキナでは当たり前にされていることが自分にとってすごくストレスだったりします。
そんな時は、こちらの文化を良く見て、考えて、よく想像して、自分に恥ずかしくない行動をとるようにしています。

例えば、ブルキナファソの人びとは、よく物をねだります。「その服とても素敵ね。私にもちょうだい。」とか、市場で何か買ってきた袋を見つけると袋を覗いて、「何を買ったの?私にはないの?」屋台でコーラを飲んでいると、「おごってくれる?」旅行から帰ると、「お土産買ってきた?」というような具合です。

会うと飴ちょうだいと言ってくる子どもたち


最初は日本人でお金を持っているから言われているのかと思いとても不快に感じて、「何であなたに買わなきゃいけないの ?」とムカっとしながら言い返したりしていました。でも、よく観察してみるとブルキナベ同士でも頻繁に同じような会話が行われていることに気づきました。

日本では物をねだることは恥ずかしいこととされていますが、ブルキナファソでは物をねだることも、物をねだられることも自然な行為であって、コミュニケーションの一種のようです。

最近では私のほうから「その服素敵ね。私にも買ってきて。」「そのお菓子おいしそうね。私にもちょうだい。」というように反逆??するようになりました。

そして、驚くのは、私よりも明らかに貧しいと思われる若い女の子が、本当にお菓子をくれたり、一緒に飲んでいたおじちゃんがコーラをおごってくれたり、近所のお兄さんがお土産を買ってきてくれたりするのです。

そんな時は自分はなんてケチなんだ、という気分になります。

他にも、ブルキナの文化には『みんなの物は自分の物』みたいな文化があって、例えば、お金がない親戚の子どもを引き取って当たり前のように育てていたり、夕食時に訪問すると必ずご飯をご馳走してくれたりします。

とはいえ、日本人からすれば?度が過ぎることは多くあって、私の庭でいつの間にか、近所の人のアリコ(大豆)が栽培されはじめたり、玄関にあるコンセントを知らない人が勝手に使っていたり、冷蔵庫を勝手に開けられたり、子どもが塀を乗り越えて敷地内に入ってきたり(これは別か。)異文化に慣れるのには相当な時間がかかりそうです。
そして、自分もブルキナベのようになりきるにはとてもストレスがかかります。

怒りたい時は怒る!


やっぱり私は日本人なので、嫌な時は嫌と断りながら、時に怒りながら、時に我慢しながら、時にブルキナベっぽく振る舞いつつ、生活しています。
基準は日本でもブルキナでもなく自分。色んな人の話を良く聞いて、良く見て、考えて、自分に恥ずかしくないように行動しよう、と戒めています。

最近嬉しいな、と思うことは、「この人のこんな所が嫌い」と思えるようになったことです。
最初は、「助けるべき貧しいアフリカ人」だった人たちが、ちょっとおしつけがましいけど色々面倒見てくれるおばちゃん、忙しいとすぐ機嫌が悪くなるけどいつも一緒に活動してくれるカウンターパート、いつも私がご飯を奢らなきゃいけないけど村中を連れまわしてくれる近所の子、女好きでよくサボルけど愛嬌があって憎めないガルディアンとか、いいとこもあるし、悪いとこもある私の大切な人たちになってきています。

旅をしている時は、長くそこにいることができなかったので、ちょっとしたことで「この人はいい人」「この人は悪い人」という判断になっていました。
だから、こうやって一人一人と深く関われるのって、異文化のその土地に住む醍醐味だなぁと思います。
あと1年半弱、もっと色んなことが見えて、愉快な仲間をたくさん増やしたいです。

私と近所の愉快な子どもたち




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